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協会の歩み
明治20年
(1887)福島の競馬の歴史が始まる。
信夫山招魂社の祭礼に、福島県産馬組合取締所(のちの県産馬畜産組合)主催の奉納競馬が行われ、大変な人気を呼ぶ。東北地方で最初に行われた洋式競馬だった。明治30年
(1897)信夫山競馬から郡山市開成山へと移転。
明治41年
(1908)各競馬倶楽部が秋季競馬を目前とした10月5日、馬券禁止令が発令される。
内務省警保局長の発表によると「前年4月に公布された新刑法『賭博及び富くじに関する罪』に照らしても馬券発売は賭博類似行為であり、社会に及ぼす弊害大なり」。大正2年
(1913)伊藤 彌。慶応3年3月、福島県安達郡本宮町の旧家に生まれる。のちに福島競馬の基礎を築いていく伊藤彌が有志30名とともに、競馬振興、乗馬奨励、競馬発展を主旨とした「福島愛馬会」を結成。
大正5年
(1916)馬券禁止後統合された11の競馬倶楽部のうち、静岡の藤枝競馬倶楽部の経営不振を聞き、開催権の譲渡の可能性を求めて伊藤彌が動きだす。
開成山競馬を公式競馬にする交渉を持ちかけたが立ち行かず、福島に新たな競馬場をつくり、そこでの公認競馬を決意。大正6年
(1917)大嶋 要三。憲政会に属す実業界の実力者。伊藤彌に賛同した福島県建設界の重鎮大嶋要三は、市議、経済人を説得し、市をあげての公認競馬誘致運動を展開し始める。
藤枝競馬倶楽部との譲渡交渉の末、12月27日、藤枝から福島への正式な移転許可が下りる。大正7年
(1918)大正7年6月28日、福島競馬第一回開催。1月12日、藤枝競馬倶楽部は定款を変更し福島競馬倶楽部と改称、今日まで続く福島競馬のスタート。
3月20日に着工し6月24日には福島競馬場の体裁が整う。記念すべき福島競馬第1回開催の4日前だった。大正10年
(1921)競馬倶楽部の全国組織「競馬協会」が設立。
大正11年
(1922)全国の競馬倶楽部で経営状態が逼迫していたなか、帝室御賞典が福島競馬倶楽部主催のレースに下賜される。
以来昭和12年まで16年間、帝室御賞典は毎年春季競馬のメインイベントとして行われた。大正12年
(1923)肥田 金一郎。東京出身だが伊藤彌とともに福島競馬倶楽部の創設に尽力した。藤枝競馬倶楽部の開催権譲渡の際に活躍した肥田金一郎は、健全な競馬発展のためには馬券発売が重要であると陳情書を馬政局長官に提出。
3月9日、競馬法案は衆議院本会議を通過し、貴族院本会議にて可決成立。馬券解禁。昭和11年
(1936)昭和12年、福島競馬倶楽部は解散、時代は「日本競馬会」へ。5月29日、すべての競馬倶楽部と帝国競馬協会を1つの特殊法人「日本競馬会」(のちの日本中央競馬会)とする改正競馬法が公布される。
日本競馬への移籍からもれた倶楽部会員らは、競馬場ごとに「競馬振興会」をつくり馬主団体として協力することに。昭和24年
(1949)9月17日、農林省主催の国営競馬として戦後第1回の福島競馬が開催された。この再開競馬開場式当日、9月6日、福島競馬振興会が馬主協会設立総会を開く。
昭和25年
(1950)2月21日、農林大臣より正式に許可され、「社団法人福島競馬場馬主協会」が発足。初代会長には大嶋長十郎が就任。開催日は6日で競争回数54回。
昭和42年
(1967)福島競馬場が開設50周年を迎え、昭和40年(1965)に新設された「七夕賞」「福島記念」に続く三つ目の重賞「福島大賞典」が加わり、発売金100億円を突破した。
昭和51年
(1976)本協会会員半沢吉四郎氏所有のグリーングラスが菊花賞に優勝。
昭和54年
(1979)6年振りの主場開催が実現し、福島名物のバンケットを利用した障害レースが復活。516億円強の最高売り上げ。
本協会会員半沢吉四郎氏所有のグリーングラスが有馬記念に優勝。昭和57年
(1982)中央競馬馬主協会連合会、日本中央競馬会、日本調教師会三者による「預託料問題に関する懇談会」の報告書が提出される。
本協会会員堀川三之助氏所有のホリスキーが菊花賞に優勝。昭和59年
(1984)3歳未勝利戦が福島でも実現され、60レースが2、3回福島で行われるようになる。
平成3年
(1991)今泉会長が退任し、佐久間有寿副会長が四代目会長に。
JRAでは馬番連勝複式馬券が発売、在宅投票PAT方法のテストなど、ファンに向けた新サービスが始まった。平成7年
(1995)今泉貞雄会長が逝去され、村田博氏が五代目会長に。
福島競馬場スタンドの増築大改装が行われ、売り上げは2千億円の大台へ。平成9年
(1997)中央競馬の売り上げが4兆円を突破。
本協会会員半沢(有)所有のグラスワンダーが朝日杯3歳Sに優勝。本協会会員有限会社シルク所有のシルクジャスティスが有馬記念に優勝。平成10年
(1998)福島競馬場開設80周年の記念式典。快適空間「ウインズ新白河」がオープン。
本協会会員半沢(有)所有のグラスワンダーが宝塚記念、有馬記念に優勝。平成12年
(2000)本協会創立50周年。六代目会長には下田穣一郎氏が就任。
本協会会員有限会社シルク所有のシルクプリマドンナがオークスに優勝。平成13年
(2001)創立51周年最初の定時総会が2月末に開かれ、前途にあるさまざまな難題を確認し合った。まず、前年の新潟競馬場の工事に伴って春1回、夏1回、秋2回の変則開催となった平成12年度事業報告がなされ、そして平成13年度の事業計画書案が発表された。任期満了に伴う役員の改選なども。
11月にはJRAの新しい馬主形態「組合馬主」制度がスタート。平成14年
(2002)春・夏・秋それぞれ1開催ずつとなり、第一回福島競馬から馬単(馬番号二連勝単式)と、3連複(馬番号三連勝複式)のJRAの新しい投票法が始まった。
また、6月から福島でも2歳馬戦が始まり、福島競馬の平地区分は「3歳および4歳以上」から「2歳および3歳以上」へ変更。9着以下の馬や、未勝利戦でタイムオーバーした馬について出走制限が行われるなど、ファン重視の競走体系に。平成15年
(2003)2歳新馬戦の出走条件が、6月から「新馬一走化」のルールに変わり、10月からJRAの新しい施策「新出走馬決定法」が導入された。
従来の「除外優先権」や「優先権を使えない5頭枠」を撤廃し、単なる抽選によらない新しい優先順位に改善。これにより、全馬が2、3歳にかけてはダービーを目指し、夏以降は他世代の馬と競い有馬記念でクライマックスを迎えるという、JRAの基本サイクルが明確に。平成16年
(2004)福島競馬場のダートコースが改修され、1150メートルと2400メートルコースが新たに設置、ダートコースは全面に渡って山砂層を総入れ替えした。
秋の第3回福島競馬では、3歳以上500万下競走が新しいダート150メートルで12レース、2400メートルで1レースが施行された。3月に開催された定時総会では例年通り、前年度の事業報告や任期満了による役員改選人事が行われた。平成17年
(2005)JRAは創立50周年。前年のダートコース改修に続き、芝コースが張り替えられた。
また、7月3日、最終レース終了後のパドックで、日本馬主協会連合会主催による(第7回)JOAチャリティーオークションが福島競馬場で初めて行われた。売り上げと募金のおよそ280万円が市内の児童養護施設3ヵ所に寄付された。平成18年
(2006)6月の夏季競馬から、競走馬のクラス分け(競走条件区分)が変わった。「勝った馬が同じ競走条件(クラス)に留まらず昇級する」ことを基本に、ファンにもわかりやすくシンプルなものにするのが狙い。
どの競走馬も馬齢に関係なく、各競走条件のレースに勝つたびに「勝っても同条件」なしに1ランク上の条件に昇級していき、1勝の価値が尊重されるように。平成19年
(2007)8月に発生した馬インフルエンザの影響のため、18、19日の札幌、新潟、小倉競馬が中止。その振替分が福島開催にプラスされ、例年より2日多い26日の開催となった。これにより福島の売得金、入場人員は増えた。JRAは、この春に行った競馬法の改正で、払戻金の上乗せ措置を可能としたこと、上級条件の出走馬を充実させるなどの措置を考える。
平成20年
(2008)12月5日、福島競馬復興会と福島競馬場によって、福島競馬の発展ならびに地域振興のための懇親会が開催された。
福島競馬振興会は、昭和28年(1953)に福島競馬および市の観光の発展を期して発足し、本年で創立55周年。平成13年に福島青年会議所が「馬とふれあえるまち福島」構想を発表し、14年には「福島城下大名行列」が、15年には「開花来馬パレード」「まちなか馬事公苑」なども。平成21年
(2009)本年4月から外国居住者(本邦外居住者)の馬主登録が認められ、11月には4人が登録された。
また、7月12日、第2回福島競馬最終日に、国の重要無形民俗文化財に指定されている「相馬野馬追(甲冑競馬)」がダートコースで行われた。甲冑をまとった騎馬武者が旗指物をなびかせながらの疾走。福島ならではの壮観なイベントとなった。平成22年
(2010)本協会は創立60周年。平成13〜22年9月末の時点で、重賞勝馬(中央+地方交流)はのべ37頭、GⅡ馬は16頭、GⅢ(JpnⅢ)馬が21頭という数字だった。
また、中央競馬では、クラシック競走、そのトライアルとなる重賞競走、2歳重賞競走など25の重賞競走が国際競走となり、すべての平地重賞競走(123競走)が国際競走となった。